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橋本努講義「経済思想」期末レポート2005

 

2005/07/24

ヨーロッパ資本主義の発展と軍事革命

                     未分化な軍事・政治・経済を論じる可能性

黒阪健吾 17030015 経済学科3

 

0.序論

テキスト ボックス: 図1 レヒ河畔ラインの戦い、三十年戦争
        (1632年;『ヨーロッパの傭兵』扉ページより)
 本稿では1619世紀のヨーロッパに起こった軍事組織の変化が、資本主義の形成に影響を与えたことを概説する。ここでとりあげる軍事組織の変化とは「軍事革命」と呼ばれる、@鉄砲・大砲などの火力やイタリア式要塞の導入、A租税によって維持される常備軍、によって特徴付けられるものである*1。軍事革命がヨーロッパにおける資本主義の形成に影響を与えたという主張は「産業革命」の蒸気機関がそうであるように、単なる技術的な問題に還元されてしまうことが多く、資本主義の発展に伴っておこった付随的な変化としてしか捉えられてこなかった。そのため、軍事革命への関心は歴史学、主に軍事史という一分野に占有されていた感がある。

 しかし、平均して十年にも満たない間隔で戦闘を繰り返し、「政治」が戦争とその準備を意味するありさまであった当時のヨーロッパの状況を考えると、そのような捉え方はむしろ不自然であると言える。そして軍事史には軍事とイコールで結ばれていた政治と、そこから未分化であった経済が、次第に区別されるようになる(経済「学」ではPolitical EconomyからEconomicsへの路線変更が対応する)という視点が決定的に欠けている。本稿の意義は、軍事革命という経済のターニングポイントを、技術史から経済史へと取り戻す試みにある。

 以下では資本主義の発展と軍事革命との関わりを、とりわけ軍事革命がもたらした予算規模の全ヨーロッパ的拡大という観点から論じる。まず第一節では、軍事革命以前のパワーゲームについて説明する。ここでは騎士から傭兵へ、戦力の主役が変化していく様子が示される。第二節では、軍事革命後のパワーゲームについて説明される。ここでは国家間の戦争にかかるコストが、それ以前とは桁違いに増加していく様子が示される。第三節では、その常備軍を支えるための税制システムが資本主義に与えた影響について、おもにイギリスとフランスという、それぞれ立憲君主制と絶対王政を代表する2国を比較しながら考察される。税制システムの違いが、後の資本家階級の誕生に直接的・間接的に関わってくるのである。第四節では、増加する戦費に応じて巨大化する、広い意味での軍需産業の発展が説明される。ここでは軍隊を巨大な消費者集団と捉え、貨幣を用いた国際的な市場の構築に軍需産業がいかに貢献したかが明らかにされる。

 

1.軍事革命以前

テキスト ボックス: 図 2 ドイツ傭兵(左)とスイス傭兵(右)による「針鼠(legel)」陣形どうしの戦闘(『図説西洋甲胄武器事典』p192より) 封建制については、主に経済史の分野で盛んに議論されたこともあり、その見方もやや複雑である。原因はその「所有権」の定義が「占有権」と混同されるなど曖昧であり、何にもまして重層的であったという点にある*2。所有権の詳しい話は別に譲るとして、最も基本的な生産単位である、農奴と土地とがセットになった村落を直接に支配する領主達は、それを与えた人間に対して騎士として軍事的に奉仕する義務を負っていた。自前で武装費用を賄うことのでき(その費用は8世紀のフランク王国では雄牛23頭分)、戦闘の訓練に時間を割ける人間は希少であり、それが故にいったん戦争となるとその威力は絶大であった。支配者の軍事的なパワーは、騎士をどのくらい抱えているかで示されていた。

 しかし、長く続いた騎士の時代は14世紀にかげりが見える。1346年、百年戦争クレシーの戦いで、イングランドは長弓部隊の活躍があって、鎧で武装したフランス騎士を破ってしまう。この傾向は他のヨーロッパにもみられる傾向であり、クレシーの戦いは騎士の時代の終焉を予感させて十分に足りるものであった。君主達にとって、騎士に土地を分け与えてさえいれば戦いに勝てるという時代は終わったのだ。

 1477年にはフランスのブルゴーニュ公が率いる騎士団が、今度は槍で武装したスイス農民兵に討ち取られている。スイス農民達は密集した方陣を組み、突進してきた騎士たちに向かっていっせいに槍を向ける「針鼠」というスタイルをとったのだった(図2)。その教訓もあってか、ブルゴーニュ公の娘婿にあたる神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世は、騎士にかわる軍事システムとして傭兵制度を考案する。以後の戦いのスタイルは、騎兵の突撃から密集した歩兵どうしの衝突、それも大部分を傭兵によって構成された軍隊に主役が移ってしまう。中世の戦いの主役が騎士であったならば、近世のそれは傭兵であったと言テキスト ボックス: 図 3 軍の前線(『長篠合戦の世界史』p106)ってよい。

 傭兵システムは戦争請負業者ともいうべき傭兵隊長が、最高司令官である君主と契約を結ぶというスタイルをとっていた。しかし傭兵隊長はコーディネーターの役割を果たしていたに過ぎず、その下には連隊長、大隊長が控えており、経営は中隊単位で行われていた。君主は傭兵隊長を通して給料を支払い、中隊長は上から分配された資金をみながら、兵士を雇用していく。この中隊システムは、密集体系という戦いのスタイルに最も適したものであり、訓練や装備、兵站などをすべて丸投げできる、君主にとってまことに使い勝手のよいものであった。

 

食糧や装備は、軍隊を追って付いてきた酒保商人から兵士が直接買っていた。大勢の傭兵達が家族を連れながら、宿営地で食糧を購入する様子はまるでドイツ中を移動して歩く町のようであったと言われる(図4)。ちなみに近世の戦いで略奪に関する記述が多いのは、傭兵達への給料が滞りがちであったという事情もある。傭兵システムの欠点といえば、町と呼ばれるまでに自律的なシステムだったが故に、政治的な目的を達成することではなく、生存することが軍隊の至上命題となってしまい、いたずらにコストがかかってしまうという点である。

テキスト ボックス: 図 4 軍の露営地
      (『長篠合戦の世界史』p107)
 時代が進むにしたがって、勝利を確実なものとするために必要な兵士の数は多くなる。中世末には3万人を動員するのがやっとだったヨーロッパ諸国が、30年戦争では最終的には両軍それぞれ10万人を軽く越す規模を擁しているというありさまである。この傾向は後に常備軍が導入された17世紀後半には更に増加している。まさにイングランドの歴史家ロバーツが言うように「フェリペ2世(15271598)は4万人の軍隊でヨーロッパに君臨したが、ルイ14世は40万人必要とした*3。」のである。傭兵隊長から中隊長まで途中多くの指揮官達を通じて給料が分配される傭兵システムでは、軍隊の規模が巨大化すればするほど末端に補給が行き渡らず、その効率は逓減してしまう。冷戦時の核競争のように絶え間ない軍拡と、傭兵システムが自ら生み出した「軍隊が戦争をつくる」構図に対して、システム規模の増加には限界が存在していたのである。

 

2. 軍事革命後のパワーゲーム

テキスト ボックス: 図 5 アイルランドのイタリア式要塞チャールズ・フォート
         (1670年代;『長篠合戦の世界史』p45より)
 軍事革命とは、序論で説明したとおり、@鉄砲・大砲などの火力やイタリア式要塞の導入、A租税によって維持される常備軍によって特徴付けられる。鉄砲の導入は1415世紀まで非常にゆっくりとしたものであったが、1594年に「斉射」戦術が発明されてから戦術を一変させる。この「斉射」は銃兵を10前後の細長い隊列に分けて、最前列が常に銃を発砲できるような戦術である。このような戦術を実行に移すためには、従来の傭兵による中隊システムでは対応できない。第一に、50列前後の隊列を組む敵の密集体系に対して10列で臨むには、よりいっそうの規律遵守や団結心を期待しなくてはいけない*4。旗色によって主人を変えるような傭兵では不都合である。第二に、全軍の精度を一定に保つことが要求されるようになった。以前のように中隊ごとに訓練を任せていたのでは、精度の劣る一角を突破されてしまうのである。

 大砲は15世紀までに、高い城壁によって守られた城郭を全く無力なものにしてしまった。それ以前のヨーロッパでは、いったん城郭を築いてしまえばそれを占領するためには、膨大な費用がかかってしまうため、ある程度小規模の国家でも生き残ることが可能であったが、大砲が登場してからはそれもかなわなくなってしまった。国家が生き残るためには、大砲の攻撃に備えた新式の要塞を新たに建て直し、自らも大砲で武装するしか方法はなかった。その新式の要塞はイタリア式要塞と呼ばれた、幾何学の知識を駆使して設計された星型の要塞で、やはり軍事革命を特徴付ける産物である(図5)。

いずれにしても独立のコストは格段に高くなったのである。無数の小国によって分割されていたイタリアを侵攻しようとしたルイ11世(在位14981515)に、ミラノ人顧問官トリヴルツィオが与えた助言は「カネ、カネ、そしてカネでございます*5」であった。戦争に必要な物量は間違いなく増加していたが、軍事革命によって物資の需要が全ヨーロッパで高まったため、価格自体も急激に上昇していた。当時の軍事専門家によると、兵士一人当たりの経費だけでみても、1630年代には前世紀の5倍に達したという*6。参考までに軍事革命期のイングランドにおける、国家予算に占める軍事費の割合を資料として提示しておく(表1)。後に資本主義の主体となる国民国家は、その武力でもって排他的な権力を築きあげる一方で、高騰する戦費を調達するための財政を支えるための新たなシステムという需要に応えることになるのである。

 

 

3.財政システムとしての政体

 イギリスは1215年にマグナ=カルタが発布されてから伝統的に立憲君主制である。マグナ=カルタが成立したきっかけは、ジョン王(11991216)の招いた財政難にある。当時イングランドはフランス王家と大陸の領土を争っていたが、戦争のスタイルは以前よりも専門的になってきており、後の傭兵化の流れが進んでいた。ジョン王治世のイングランドは先々代のヘンリー二世(115489)の名目歳入の実に2倍を越えていたのである。イングランドは、その歴史を通じて常にドーバ海峡の対岸を仮想敵国としてきた。そのため、絶えず軍備を拡張する必要上、王は国家の財政規模を拡大せざるを得なかったのである。

テキスト ボックス: 図 6 クレシーの戦い、百年戦争
        (1346年;『図説西洋甲胄武器事典』p112より)
 このような戦争のスタイルの専門化・軍事費の増大と、それを支える国内の政治システム形成は、イングランドでは百年戦争期(13371453:図6)によく示されている。すなわち@百年戦争は、実際には何度も途中で中断している。これは初期の段階では両軍とも騎士として参加していた封建領主たちにとって、秋の農繁期には領地に戻る必要があったためである。Aクレシーの戦いは、金銭で雇われた長弓兵が自弁の騎士に対して引けを取らないことが証明された。つまり百年戦争では、封建領主が徴兵されるかわりに金銭を国王に支払い*7、それを資金として国王が傭兵を雇うことが互いにとって次第に望ましい状況となっていったのである。

 そもそも初期の議会の役割とは国王の徴税の監視と、国王の権力乱用の防止、すなわち立法権の制定にあった。当時の王権は、後のフランス絶対王政ほど強力ではないにしろ、主に騎士を率いて対外戦争を実行するという重要な役割を与えられていた。中世の初期の段階では、武器と郎党を自前で調達する騎士が主力であったから、王は対外戦争に際して自分の武器や郎党に支払う給料を個人の領地からの収入で、全軍を補助する弓部隊は王個人ではなく王職に与えられた領地からの収入でまかなった。

しかし弓兵や槍兵などの補助兵力が重視されるようになると、それらを増員する費用を封建領主から臨時に徴収されるの税に求めるようになった。よって前に述べた議会の起源をより正確に表現するのであれば、「議会は、対外戦争で税が適切に使われているかを監視するために設置された」とするべきである。過剰な税は議員の負担になるし、対外戦争が落ち着いた隙に国王が傭兵を自分達の領地に差し向けるとも限らない。かといって対外戦争でフランスに負ける訳にもいかない。

 国王の主な仕事が徴税し、軍隊を率いて領地の拡大に専念することである時代には、これは彼にとって大変窮屈な制度にあったように思える。後のフランスにみられるような絶対王制の場合、土地を基盤とした貴族達を免税し、宮廷に引き入れてしまったため、王はかなり自由に徴税することができた。イングランドの領主達が国王の権力をコントロールすることで、自分達の安全を担保することを考えたのであれば、フランスの土地貴族たちは自分の立場を国王と同化させることによって、それを達成させることを望んだのである。イギリスの立憲君主制とフランスの絶対王政のどちらが国王にとって望ましいかは明らかである。

 しかし、長期的には立憲君主制は資本主義を担う資本家を育てることに成功し、より多くの安定した税収を望めるようになったのである。土地を基盤とする特権階級の立場からすると、自分達の階層から議員を出すことによって、無制限の徴税の恐怖から開放され、心置きなく農地の生産性をあげることができる。フランスでは国王と結託した裕福な領主にのみこのような特権が与えられている一方で、イングランドでは議員になるという方法で、それほど裕福ではない地主や商人など比較的広範囲で多数の国民が、この特権にあずかることができたのである。イングランドやオランダのような国家は、地主の協力なしには土地の査定もままならず、したがってそれ抜きには安定した税収を望むことができない状態であったので、議員・国王双方にとってこれはメリットとなったのである。

テキスト ボックス: 図 7 オランダ海軍の軍艦(1645年;『長篠合戦の世界史』p137)手前右から2番目と4番目は商船を徴用したものである ちなみに、もし仮にイングランドで裕福な地主と結託して絶対王政を築こうとしたならば、国王は大規模な反乱を覚悟しなくてはならなかっただろう。イギリスが誇る国王直属の海軍は、陸軍のように国内の鎮圧に転用することができない。清教徒革命(1642)で明らかになったように、島国であり海軍国(1680年前後で比較すると、陸軍と海軍の予算比フランス21に対してイングランドは107であった。他のヨーロッパ諸国に比べてもイギリスの軍事費に占める海軍の割合は大きい*8)であったイギリスに絶対王政を打ち立てるのは極めて困難な事業であった。

 一方のフランス絶対王政では、比較的貧しい地主や裕福な商人から、国王の官僚や裕福な地主が協力して抑圧的に徴税した。これを可能としたのは、皮肉にも課税の原因である国王直属の常備軍、フランスの場合強力な陸軍であった。分断と排除を基盤とした絶対王政は、立憲君主制に比べて非常に硬直的な財政システムであり、資本家階級の発達を阻害してしまった。強力な陸軍によって押さえつけられていた潜在的な資本家階級は、18世紀に革命という形で爆発するが、その時点では既にライバルのイギリスにかなり水をあけられていたと言うべきだろう。

 

4.大量消費地としての軍隊

 膨大な額にのぼった軍事費は、具体的には何に支出されたのであろうか。鉄砲や大砲といった純軍事的な商品に支出されたというのは当然のことだが、注目するべきは食糧や布地といった生活必需品への支出である。食料品を例に取れば、陸軍という大量消費地の存在なしには、資本主義の発展が100年遅れていたであろうとも言われる。例えば1740年〜1789年のプロイセンでは、平時においても人口に占める軍隊の兵力は約4%を維持しており、当時の住民のうち6070%が確実に自給自足の生活をおくっていたことを考えると、この消費者の存在がいかに大きかったかが分かる。プロイセンの都市では、軍の予算が唯一の収入源であった。資本主義発展の条件である貨幣経済の浸透は、プロイセンにおいては軍の存在抜きにはありえなかったのである。

 また、兵糧として求められた食糧という商品は、国際マーケットを早くから形成したという面も見逃せない。16世紀末のアントウェルペンから1718世紀のアムステルダムに穀物市場が移ってからといういうもの、東欧からの穀物輸送量が約二倍に膨れ上がっている。この食糧は東欧のドイツ騎士領から持ち込まれたものであることが推測されるが、ではいったいどこに販売されたのだろうか。真っ先に思い浮かぶのは都市人口の増加であるが、17世紀に50万の人口を擁したロンドンでさえ、近隣のノーフォーク、サフォーク、エセックス、サセックス、ケントといった近隣の穀倉地帯によって食糧が自給されていたことが確認できる。結論からいえば、この当時に国際市場を必要とするほどの大都市はヨーロッパには存在し得ない。その空白の需要を埋めるほどの規模を持った大消費地は、実にヨーロッパでは軍隊しか考えられないのである。

 また、傭兵部隊から国民国家へ移行した際の目に見える変化といえば服、つまり制服の誕生である。軍服は敵味方を判別するという実際的な意味と、同じ服を着ることによって団結心を強めるという軍事的な意味合いを持つものだった。制服の着用は、軍事革命によってもたらされた戦術の延長をなすものであると考えても良い。この布地の急激な需要の増加は穀物の場合と等しく、ヨーロッパ人の前に巨大な国際市場を垣間見せるという役割を果たしたのである。

 

参考文献

『一般経済史』 長岡新吉・石坂昭雄編著 ミネルヴァ書房 2003

『経済原論』 日高晋 有斐閣 2004

『資本の帝国』 エレン・メイクシンズ・ウッド 中山元 紀伊国屋書店 2004

『新世界史』 前川貞次郎・堀越孝一 数研出版

図説西洋甲胄武器事典 三浦権利 柏書房 2000

『世界史』 ウィリアム・H・マクニ―ル 増田義郎・佐々木昭夫 中央公論新社 2002

『世界史アトラス』 綜合社 集英社 2001

『世界史テーマ学習80』 柴岡元他編 2000

『世界歴史体系 イギリス史1−先史〜中世−』 青山吉伸 山川出版社 1995

『戦争と資本主義』 ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也 論創社 1996

『戦争と平和−政治経済学的アプローチ講義ノート第一章』(p.68

 佐々木隆生 2004

『ソーシャルパワー』:社会的な<力>の世界歴史 

マイケル・マン 森本醇・君塚直隆 2002

『長篠合戦の世界史』 ジェフリー・パーカー 大久保桂子 同文館出版 1995

ヨーロッパの傭兵 鈴木直志 山川出版社 2003

 

 



*1 佐々木〔2004

*2 封建制での所有権については『一般経済史』(p6163)に詳しい

*3 ヨーロッパの傭兵』(p67

*4 ジェフリー・パーカー〔1995

*5 『ソーシャルパワー』(p492

*6 ジェフリー・パーカー〔1995

*7 このような金銭は「軍役代納金」と呼ばれ、ジョン王の治世に傭兵への依存が強まった結果、租税の一種となった。 『イギリス史1』(p257

*8 ゾンバルト〔1996